Graduate Last Tour 1984 in Epicurus
このツアーで披露した楽曲 1.あの人を探して 2.住んだことないけど横浜 3.想い出トリップ~9月のハーモニー~LonelyLady(メドレー) 4.ファンタスティックレイン 5.危険な恋の誘い 6.Love Again 7.Tell me some truth 8.Sound of music |
あの人を探して 製作者コメント 【竹内 一直】 Drums |
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危険な恋の誘い 製作者コメント 【下田 一人】 Lead Guitar | ||
4年間のバンド活動で、私は3曲しか作りませんでしたが、最後に作った曲がこの曲です。 曲を作ろうと思って作ったのではなく、なんとなく口ずさんでいるうちに出来てしまいました。 サビの男性と女性のセリフの掛け合いは、恋して破れる男と女の自然な関係をそのまま歌に乗せることが出来た曲です。 実は、たった30分ほどで、あっという間に出来上がってしまった曲だったのです。 |
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ファンタスティックレイン 製作者コメント 【大極 隆】 Bass Guitar & Vocal |
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この曲のモチーフはサザンアルバム「綺麗」のEMANON、彼らの進化にあやかった。 詞について誰かから「最近 達観してきたな」と言われたのを記憶している。 Aメロ歌いだしの一直君のスネアについて「そう来たか!なるほど!」と感心、以後のシンコペーションの在り方の勉強になりました。 歌+メロディアスベースの両立 を極めるという1年生結成当時の個人目標に 「近づいてきた?」 と思っていた矢先、リハでPAの人から「あのー、ボーカルさん、フレットに意識がいってしまい歌が拾い難いでーす」・・カチンときました。 |
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Love Again 製作者コメント 【西野 久子】Keyboard | ||
この曲を振り返ってみると。学生から社会人になっていくことで、環境が変わって行く不安な気持ちを表していたように思います。 今ならわかることも、なかなか自分探しをしていた頃ならではの曲調に感じられます。 |
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◆Last Live へのコメント◆ | ||
【大極 隆】 当コンサートの主催はフォーク研ではなく我々の学年だけど、実際は後輩の皆様に多大な支援協力を得て成立した訳で、本当に恵まれた環境に感謝ですな。 会場の渋谷エピキュラスは、以前先輩が使ったか・・覚えてないけど大極が選定した。 キャパ(客席数)、音響ともに最適、兼ねがねベーシストとしてはドラム・ベースが鮮明に聞こえる会場を求めていました。 我々の学年は4つのバンドがあり、今回トリを務めた「アップルキュート」のステージを見ていて、その姿に良い音響が重なってとても感動したのを覚えています。 どのバンドも、就職先の研修、卒業旅行、帰省、卒論や追試(汗)やらで、忙しい中、練習した成果を存分に発揮できた事、嬉しく思い、打ち上げの「ふたき旅館」でカンパーイ! 最高の学生時代エンディングでした。 「カクテルパーティ・クオリティ」について書いておきたいと思います。オリジナル曲をやり続けたバンドとして、コンサートの選曲については「基準」があったはずです。当時、僕らはそれを意識して明文化したり、選曲会議をした事はありません。ですから無形の基準ですし、以下書き出してみた事は私見ということになります。 1.作者自身がその曲の事を「作った時」と比べて「バンドに持ち込んでみた後」も好き度合が変わらないか、もっと好きになってるか?(恋人や家族とおんなじなのです) 2.メンバーはその曲を好き?演奏したいと思ってる?著しくヒマな人(パート)いない? (4年間の通算ステージ割り当ては85分、大変重要なファクターでしたね) 3.イントロからエンディングまで揉み忘れなく磨いたか?妥協してないか? (我々はジャズやブルースなどの即興音楽、セッションユニットではないし、上手くないから、「学習発表会」に向けて沢山意見を重ねて沢山練習したのです) 1~3を満たすために必要なモノ・・・「情熱」「執念」「こだわり」「プライド」「愛着」・・ 「カクテルパーティ・クオリティ」・・まるで企業理念・行動基準のようです。オリジナル曲=自由 をやり続けるために、基準(ものさし)=縛りを無意識に設けたのでしょう。 |
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【下田 一人】 4年間の部活動の集大成と言えるのが卒業コンサート。 このサークルでは、十数バンドがひしめき合う中でライブをやるため、自分たちのバンドを表現出来るのは1回のコンサートで長くてもたったの15分。なので最後の最後で、やっと自分たちのすべてを表現出来たライブと言えます。 中学からギターをはじめ、チューリップのコピーバンドにはまり、高校時代もコピーバンドを続けていました。当時、安部俊幸が使っていた「GRECO MR」を、お年玉を握りしめて買いに行きました。そして大学に入り偶然通りがかったサークルに吸い込まれるようにして入部したのが始まり。 そこで出会った、あまりにも個性の強い仲間が、今のカクテルパーティのオリジナルメンバー。 その個性の強さから、それぞれが色とりどりのカクテルのよう思えたのです。その色とりどりのカクテルでパーティをするような楽しいバンドが出来そうだと、直感的に「カクテルパーティ」と言う名前を命名しました。私の中でこのネーミングは、唯一無二の名前と言えます。 そして偶然のデジャブはそれだけにととどまらず、メンバーがチューリップ好きであったこと、そして夫々が作詞作曲を手掛けていてオリジナル曲を作って楽しんでいるという事。カクテルパーティは必然的にオリジナル曲を演奏するバンドとして、何の違和感もなく生まれたのでした。 私がカクテルパーティはホントに素晴らしいバンドだと思えるのは、卒業後はバンドも解散し、みんなそれぞれの道へ進んでいくのに、最後まで曲を作り続けてこのライブで新曲を披露しているところですね。常に変化や進化を求めてやってきた証と言えます。だからこの卒業コンサートは想い出巡りではなく、現在進行形だったのです。 過去の曲をメドレーにして披露出来たのも、オリジナル曲だからこそできた技。4年間をギュッと凝縮して表現できたと思っています。 60歳でWEBサイトを立ち上げてみて、もう一度スポットライトを浴びてみたい、そう思わせるバンドがカクテルパーティです。 |
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【村井 宏明】 自分がバンドをはじめた中学生の頃、最高の誉め言葉は「完コピじゃん!」でした。憧れのプレイヤーの演奏を再現する。その生音に感動し、上手なプレイヤーは仲間から一目置かれる存在でした。 そんな環境の中で、自分はというと敬愛するポールマッカートニーのソロアルバムのように、多重録音をして自由な音の世界で遊んでいるような、オタクな青春時代を過ごしていました。 大学に進学して、初めて自分の曲をバンドで採用してもらった時は、楽譜の代わりにデモテープを渡して曲のイメージを伝えていましたが、同じバンドの相棒であり、曲作りのライバルでもあった大極君の技法は、担当楽器ごとにアウトラインを提示し、演奏者に各パートを任せるといった、全く違うアプローチによるもので、彼から教えてもらった事も沢山ありました。 コピーバンドの場合、そこには見本となる音源がある訳ですが、自分で作った曲にはそれが無く、イメージとメンバーの演奏力でどうにでも展開していく“楽しさと怖さ”があります。その自由度と面白さに触れた時、再度コピー・バンドには戻れなくなってしまいました。 カクテル・パーティは大して上手なバンドでもなく、むしろ多くの失敗や企画倒れをしました。しかしそこには、自分たちの感性を信じて、正解の無い頂きに挑んだ確かな足跡が残っています。 ギター力でバンドを支えてくれた原君、“初代マドンナ”弘子ちゃんも大きな存在で、彼らがいなければそこには辿り着けませんでした。 卒業コンサートでは、初期の曲をメドレーにし、新しい曲に時間を使いました。それは過去ではなく、この瞬間である“今”を綴ろうという思いがメンバー全員にあったからです。 今回、ホームページを作ることになり、40年ぶりに映像や歌詞のテロップを付けてみると、当時は照れ臭くて伝えられなかった想いや、演奏に手一杯で気付かなかった曲の内面に触れる事ができました。 カクテル・パーティがもしもコピーバンドだったら?この邂逅は無かったでしょう。 そして何より40年経っても、パフォーマンスについて語り合える仲間がいる。 それこそがカクテル・パーティの答えだったのではないかと今は思うのです。 |
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【西野 久子】 居心地のよい仲間や環境の学生から、社会に出る不安と期待と様々な想いが交錯していたように思います。 ただ同じ時を過ごした仲間は、一生いつ合ってもその瞬間に戻れるな~って、まさしく学生時代ならではですね。 |